2025年の日本シリーズ優勝はソフトバンクホークス!
5年ぶり12回目の優勝をおさめました。
今回は少し角度を変えて、41年間ものあいだ優勝を逃している
広島東洋カープについて、その優勝を振り返ります。
そして、カープの象徴として君臨する津田恒美選手についてご紹介!
広島東洋カープが日本一になったのは3回。
広島東洋カープが初めてリーグ優勝したのは1975年。ですが、その時は日本シリーズで勝利できずでした。 (carp.co.jp)
黄金期と呼ばれるこの時期(1979〜1984年)には、選手・監督・体制がうまくかみ合い、リーグ優勝・日本一を複数回達成しました。
☞ 1979年 — カープ初の日本一!!
☞ 1980年 — 2年連続日本一!!!
☞ 1984年 — 3度目の日本一!!!!
その後、リーグ優勝は何度もありますが、「日本シリーズでの優勝」はこの3回に留まっています。
なぜなら、
日本シリーズで勝つためには、リーグ優勝またはクライマックスシリーズを勝ち抜いて日本シリーズに出て
”先に4勝”などの条件を満たす必要があります。
つまり、日本シリーズで勝ち切るのは非常に難しいことです。
活躍した主要メンバーまとめ。
★野手まとめ
| 衣笠祥雄
(内野手)
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1984年は本塁打31、本塁打王・打点王・MVPなどの成績を残しました。
長年に渡りカープの象徴的な選手。「鉄人」などとも呼ばれています。 |
| 山本浩二
(外野手/四番打者) |
打率.293/33本塁打など、勝利に貢献する強打者でした。
四番としてチームを牽引していた存在です。 |
| 高橋慶彦
(遊撃手/出塁・機動力)
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この年は打率.303、23本塁打、30盗塁という機動力も兼ね備えた好成績。
リードオフマンとして出塁・走塁でチームの攻撃を支えていました。 |
| 山崎隆造
(外野手/二番打者) |
打率.319、盗塁39という数字を記録。
出塁率・走塁も優秀で、打線の上位として機能していました。 |
| 小早川毅彦
(外野手/新人)
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ドラフト2位で入団し、1984年に新人ながら.280/16本塁打の成績を残し、新人王を獲得。
将来のキーマンとして期待されていた選手です。 |
★投手陣
| 北別府学(先発)
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1984年に18勝を挙げ、チームの先発ローテーションの柱でした。 |
| 山根和夫(先発) | 16勝をあげるなど、先発陣を支えたもう一人の柱。 |
| 小林誠二(救援も含む) | 救援および先発で起用され、安定して試合を締めた投手。 |
カープの守護神、津田恒美投手。
⚾ 津田恒美(つだ つねみ)プロフィール
- 生年月日:1960年8月1日
- 出身地:山口県都濃郡南陽町(現・周南市)
- 身長/体重:175cm/70kg
- 投打:右投右打
- ポジション:投手(主に抑え)
- 愛称:「炎のストッパー」
山口県立南陽工業高校ではエースとして甲子園出場!
その後、新日本製鐵光(社会人野球)に入社し、1981年ドラフト1位で広島東洋カープに入団しました。
🟥 広島東洋カープ時代(1982〜1991)
1982年(新人年)
- デビューから 7勝5敗11セーブ、防御率2.13 の好成績。
- 強気な投球スタイルと豪速球で話題となる。
1983〜1986年
- 抑え投手として定着。特に1986年は 11勝9敗19セーブ、防御率2.38。
- チームの勝利を守る「ストッパー」として圧倒的な存在感を示す。
1986年の名シーン
阪神戦での「代打・掛布雅之」を空振り三振に仕留め、雄叫びを上げるシーンは、今も語り継がれる伝説。
― 彼の代名詞「炎のストッパー」はここから。
1989年
- 肩の故障を乗り越え、完全復活。
- セ・リーグ最優秀救援投手賞(最優秀セーブ投手) を受賞。
- この年の成績:5勝4敗28セーブ、防御率2.20
このような好成績を収めながら、脳腫瘍を発症。
闘病の末、32歳で逝去しました。。。
【津田恒美の名言:弱気は最大の敵】
津田の生き方を象徴するこの言葉は、彼が常に
自分に言い聞かせていた言葉でもあります。
「マウンドでは、弱気になったら終わり。弱気は、最大の敵だ。」
病と闘いながらも最後まで野球と向き合う姿勢は、チームメイトや
ファンの心に強く残りました。
1981年ドラフト1位でカープに入団したとき、津田に与えられた背番号「14」。
引退まで背負った14番。
そして、津田の生き方・闘志・誠実さが
球団の理念「真摯・努力・チーム愛」に完全に一致していたため
球団のみならずファンからの要望もあり
「14」番を永久欠番に定めました。
最後の守護神、津田恒美。
今もなお愛され、語り継がれる選手、かっこいいですね。


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